2012年01月14日
畑中章宏『今和次郎と柳田国男』平凡社新書
あまりにも有名な柳田国男『山の人生』の冒頭.....
今では記憶して居るものが、わたしの外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで鉞で斫り殺したことがあった。女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じくらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てて居た。其子たちの名前はもう忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で帰って来て、飢えきって居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼ねをしてしまった。目が覚めて見ると、小屋いっぱいに夕日がさしていた、秋の末の事であったと謂う。二人の子供がその日当たりの所にしゃがんで、頻りに何かして居るので、傍らへ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いて居た。阿爺、此でわたしたちを殺して呉れと謂ったそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えも無く二人の首を撃ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。
『山の人生』にはふたつの子殺しの話が書かれていて、やがて、罪を犯した彼らは十数年の牢獄生活のあとで、特赦を受けて放免になるのだが、どこかで「まだ抜け殻のような存在を続けているのだろう」と柳田は括っている。
この作品の中では触れられていないけれども、飢えのなかで子を殺してしまったふたりの親を、牢獄から解き放ったのは、じつは、柳田国男そのひとだった。彼が法制局の参事官をしていたときの出来事だ。
わたしが柳田国男を読むようになったころ、わたしの周りは柳田を批判するひとでいっぱいだった。柳田を批判するひとしかいなかった、と言っても過言ではない。けれども、わたしは、いつも『山の人生』を読むと、批判の意味が、分からなくなってしまう。山人論を柳田が「棄てた」ことへ対する批判も、分からなくなってしまう。
いま、『山の人生』を読んだひとのなかに、飢餓のために、惨くも子を殺めた親へ「同情」をよせられるひとがどれくらいいるのか、と考える。たぶん、ふたりも子供を殺めてしまったことへの批難のほうが強いのではないだろうか。
柳田が、あのとき、日本社会をどのように捉えていたのか、ということが『山の人生』には書かれてある。柳田は、貧しかった時代の「日本社会の罪」を考えたのだと、思う。そうでなければ、あの特赦はありえなかったし、その後の「稲」の柳田も見えなくなる。
柳田は、とても深刻な、抜き差しならぬ「日本の原風景」を持ってしまったのだろう。
前置きが長くなってしまった...
畑中章宏さん『今和次郎と柳田国男−震災に向き合う民俗学』平凡社新書

畑中さんは、この震災のあとで、巨人ふたりと被災地を歩かれた。
第一部が柳田国男、第二部が柳田の弟子でもあった今和次郎の構成になっている。
三陸の海嘯、関東大震災、民俗学者がどのように震災へ向き合ったのかが紀行文のように書かれてあってとても面白い。この新書に出てくるのは、ふたりの巨人ばかりではない、折口や熊楠、八雲、鏡花、賢治...伊東忠太など、あの時代の震災とひとびとの記録としても読めるし、戦前の東北振興や雪害研究といった「東北問題」も扱っている。
本書のなかで、とりわけ、興味深かったのは、津軽のひと今和次郎の「バラックの発見」だった。
つづく......



