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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2015年09月20日

言説の領界。

 この1年間は自転車ブログみたいになりつつありますが、そもそもアウシュビッツとチェルノブイリを記録しようと久方ぶりに再開したのに。ひとつも書かないまま、もう半年過ぎてしまいました。秋学期が終わる前にはすこしは追加したいと思います。

 今日はcafe読みしていた、ミッシェル・フーコー『言説の領界』河出文庫です。


 なんだか私の専攻を民俗学だと思っているひとがすごく多いです。来る仕事、来る仕事、やたら《昔語り》系や《農村世界》系が多いです。ちょっと戸惑うこともありましたけれど、馴れました。
 けれども、自分がほんとうにやっている研究は歴史社会学専攻で、近代の東北研究です。そして、じつはミッシェル・フーコーの言説分析を方法論に採用しています。今更と言われようとも、私、フーコーがやっぱり好きなんです。(研究費で翻訳も含めて海外の書籍を購入すると「物言い」がつくのです。日本学を専攻している研究者に海外の文献は不要だなどと考えるのは止しましょう。「どうして自分は説明しているのだろう」と、悲しみにくれます。そろそろ分かっていただきたい...。)世界中に凄い歴史家や社会史の大家がいます。『地中海』のブローデル、『封建社会』のブロック、ノラ、ラデュリ...あ、ちょっとアナールに偏っていますでしょうか。彼らは言葉そのままに、まさに命がけで歴史を描いてきたのですが、それでもやっぱりフーコーが好きなんです。なぜかなぁ。
 
 例えば、こんな風に語るところがすごく気になります。日本語訳ですけれども......。

言葉を発するよりむしろ、言葉に包まれて、あらゆる始まりの彼方へと運ばれてしまえばよかったのに。


 こうして読んでいて、ひどく痛々しいと思うこともあるし、こんな場所から生まれた言説分析という方法論で、自分は何をどう浮き彫りにしようというのだろうか、と思うこともあります。
 言葉のあいだに挟まれて、ゆったりとたゆたうことができたなら、フーコーは自殺を繰り返すこともなかったし、禁忌という地と図の落差に苦しむこともなかったでしょう。けれども、その地と図の落差の中から、幸か不幸かエピステーメーが見えてしまった。
 このことを知ってしまった時、わたしも知らされた時、言葉の落差と網の目の中で、自分が生きてきたことを、はっきりと自覚したのでした。その気づきを与えたのは、なによりもフーコーでした。はじめて読んだのは、十代の頃で、寺山修司との噛み合わない対談相手として、彼の名を知ったのでした。フーコーが寺山を拒絶したことの後味の悪さを引きずりながら、大学で手に取った『狂気の歴史』に戦慄をおぼえて、確かに、わたしが生きている「この世界」には明確な「悪」は存在しないし、どこを見ても「権力者」がいないことに思いいたったのでした。禁忌は、世間によってつくられる。

 このやばい《世間》。
 
 
 

 
  


Posted by ake. at 22:45読書日記

2015年09月01日

来るべき「文化」。

 不覚にも、鵜飼先生が黒田の議論をされていたことを知らずにいて、先だって東さんより教えていただいたのだった。八戸で展開された、「飢餓之國、飢餓村、字飢餓ノ木」とその後の動物論のことだ。


「傷」に言葉はない。他者と分有されることが言葉が言葉であるための条件なら、「傷」そのものは、絶対的に単独的な出来事の痕跡として、言葉なき口のように、ただ開いているだけだ。だが、「傷」は言葉を求める。飢えた口が糧を求めるように。法の言葉、政治の言葉、医療の言葉をそれは求める。哲学の言葉、芸術の言葉、文学の言葉もまた。そのような言葉の分類には、とはいえ、無関心なまま「傷」に応答するこれら様々な言葉を正しく聞きわけること、その多様性において、その単独的な豊かさにおいて、だが無言の傷への応答としてのそのつど衝撃的な貧しさにおいても。その貧しさに耐え、その経験を通して、さらに別の言葉、別の概念、別の情動の発明を試みること。これまでも、おそらく、つねにそうだったのだが、今日以後はいっそう、このような営みなくして、その名にふさわしい「文化」はありえないだろう。(鵜飼哲『応答する力』2003年、p355。)


この来るべき「文化」には、だが、ひとつの問いかけが、ある意味ではとても愚かな問いが、影のようにつきまとう。「傷」は誰にもあるのか、という問いである。(p355)




 開ききった傷に、手当する術ももたないような、圧倒的な「貧しさ」のなかで生きながら、いつかは、手当できるような「言葉」や「情動」を発明できる日が来るだろうか。そんなことは、夢だろうか。しかし、さもなければ「わたしの《東北》」には「文化」は生まれないだろう。傷は永久に開いたまま、飢えが続くだろう。そうして、やがて乾いた「傷」に次の津波が襲って疼くのだろうか。そんなことをずっと繰り返すのだろうか。傷を覆うための布を、癒すための言葉と情動を......。

 黒田は、宙吊りのなかに生きることを自らに課したのだったけれども、鵜飼先生は、そのことを「豊かに飢えを生きてきた」と書いたのだった。来るべき「文化」が、宿る場所。


  


Posted by ake. at 02:23読書日記

2012年03月02日

原発と津波。

 もうすぐ、1年です。
 ああ、3月になったな、と思って。まるごと1年、髪がのびのびで、今日ようやく美容院へ行ったのでした。髪を切りにいくのも億劫になってしまっていたのです。ここへ来てようやく、すこし切り返しができるようになった気がします。 

 またまたご本をいただきました。今日は2冊も、ありがとうございました。
 震災から一年ということもあり、震災や原発にまつわる本がたくさんでています。

 一冊は、高橋哲哉さんと聞き手の落合恵子さんによるご本です。クレヨンハウスのブックレットです。高橋先生には先週もご本をいただいたのでしたが、ほんとうに恐縮です。表紙がとってもかわいいですね。
 そういえば、岩波ブックレットも気がつかないうちに、装丁がかわいくなっていました。前は写真の表紙が多かった気がします。

 『原発の「犠牲」を誰が決めるのか』高橋哲哉/聞き手・落合恵子 クレヨンハウス
 


 それと、もう一冊は、岩波書店より出たばかりの、『津波の後の第一講』です。この本は、大学で教鞭をとる12人の方の、震災後最初の授業の様子を伝えています。


『津波の後の第一講』今福竜太・鵜飼哲編 岩波書店
 



  


Posted by ake. at 00:27読書日記

2012年02月18日

世界の関節を脱臼させる方法。

 お晩です。ワルノリしてます、うし三郎です。
 ブログの主が、原稿地獄なので、うし三郎がお送りします。

イ・ヨンスク『異邦の記憶−故郷・国家・自由−』晶文社、2007。


 ake.は、畏れおおくて、このブログで言及することがなかったのですが、実はake.には大切な師匠がいます。李姸淑さんです。うし三郎が、蛇足なりに申し上げると、ake.は大学院での七年間を、李姸淑先生のもとで勉強してきました。

 今日は、『異邦の記憶』をお届けします。
 この書物は、すんなり読めば、すらすらと読めてしまいます。それなりに意味が拾える。けれども、注意深く読むことが必要とされるテクストです。その深度は、第一層、第二層...八層くらいまでありそうです。
李姸淑さんは、韓国人女性です。『「国語」という思想』(岩波書店)というとても有名な作品でご存知の方がいらっしゃると思います。日本で出版されている本の名前は、イ・ヨンスクさんと表記されます。名前はカタカナで、名字と名前の間に中ポツまで入っています。そうして、彼女は、何かにサインをするときも、日本では「イ ヨンスク」とカタカナで書いています。社会言語学を専門にする彼女の、言葉にたいする感性は、翻訳という次元をすでに越えているように思えます。たしか、ake.が言っていたように思います。はじめてお会いした時、「なぜ、お名前をカタカナ表記でお書きになるのですか」と聞くと、「この方が読みやすいからなの」。さらりと言ってのけたのです。「異邦」と題するこの本には、カタカナのイ・ヨンスクさんの思想的基調が沈み込んでいます。

 「序論 世界の関節を脱臼させる方法」は、植田正治の写真論になっていますが、その表層としての写真論と底を流れる思想は、一度に一緒に読み込むことで、立体的になります。その作業を、彼女は、異邦の言葉(日本語)で、やってのけるのです。とてつもない仕事です。

この世界には、大きいものと小さいもの、長いものと短いもの、重いものと軽いもの、遠いものと近いもの、親しいものと疎遠なもの、水平なものと垂直なもの、その他もろもろの系列からなる秩序ができあがっている。わたしたちはこのような秩序にしたがって世界を見たり感じたりしている。人間にしろ物体にしろ、対象がこの秩序にしたがって整然とならんでいると、わたしたちは安心して暮すことができる。
 ところが植田正治の写真を見ていると、しだいにこの自明であった世界の秩序がだんだんとゆらいでくるような感覚におそわれる。といっても、世界が無意味なカオスとなって一挙に崩壊するというわけではない。植田はわたしたちの慣れ親しんだ世界の地軸をほんの少しだけ傾けてみせる。世界をばらばらにするのではなく、ものの秩序を結びつける関節を脱臼させるのである。(『異邦の記憶』11頁。)


  「たしか重力は存在の呪いであると誰かが言っていた。」


 いかがでしょうか。イ・ヨンスクさん。
 うし三郎がお送りしました。

 今日のオマケ演歌です。うし三郎レコメンド  テレサ テン「つぐない」と「時の流れに身をまかせ」です。

 


 それでは、ごきげんようface01


   


Posted by ake. at 00:18読書日記

2012年02月17日

黒田喜夫『詩と反詩』勁草書房。

 ご無沙汰しておりました。ake.のルームメイト、うし三郎とうし美です。本日は、わたくしどもが本をご紹介いたします。今日は、古書店から同居人のake.が入手した懸案の『詩と反詩』、黒田喜夫です。


 黒い箱の裏側には、埴谷雄高のメッセージが書かれてあります。黒田は山形のひとで、埴谷は福島の小高が郷里だったかと、うし三郎は記憶しております。埴谷は台湾で生まれたのですね。黒田にしても、埴谷にしても、どこをどういうふうに経巡って、ここにこうして書物を遺しているのか、紆余曲折あったようでございますが、詳らかには存じません。埴谷はまだしも、黒田の詩を読んだことのある人はとても少ないのではないでしょうか。大学図書館になどにも、ほとんど著作は入っていなくて、古書から取り寄せました。

サムネイルをクリックすると大きくなります。
 

あ、でも大きくしても字が読めませんね...すみません。


 震災後、読んだ文章の中で、黒田の詩と評論は、もっとも率直に響いた、とakeが言っておりました。だからなんだ、ですが。とても、驚いていたようです。

 母親が東京の四畳半アパートで養蚕をはじめようとする、「毒虫飼育」。衝撃です。
 
 飢餓病を病むこと。

 
「詩は飢えた子供に何が出来るのか」

 ...実は、人間には飢えがただ飢えであることなどはあり得ないのだ。......人間にとって胃袋の飢えは、ほとんど直ちに心の飢えであり、心の飢えは、ほとんど直ちに、精神の別次な動きにつながっている。飢えた人間は、動物の、生存の、絶対の法則にとらわれながら、動物の飢えの自然に没入することはできず、彼の飢えは、飢えへの恐怖や苦悩やそこからの幻想に必ずひき裂かれずにはいないものだ。そして彼は、動物とはちがって、私たちの世界の関係との束縛においてしか飢えることができない存在なのである。
私がいままで生きてきた時のなかで、胃袋の飢えとして最も飢えたのは、戦争下の幼い労働者だったころだと思うが、そのころ、私はときとして、一度に丼に数杯ちかくの飯を平気で食べることがあった。それだけ食べながら飢えていたというのはおかしな話だが、本当は、それこそが飢えの逆からみた姿だったのだと思う。飢えとは、飢えの不安であり恐怖であり、心の飢えとなったそれは、逆に生理を支配して底なしになるのだ。ここに飢えの秘密の、どちら側からも見れる真実がある筈だ。もっとも戦争下の私の場合は、当時の食物の質の問題もあったのかもしれないが、ともかくそのころは、釜一杯の飯があったら釜一杯の飯を食ったにちがいなく、それはほとんど胃袋の飢えとともに、心の飢えが食うのである。
 『詩と反詩』183頁。下線は、うし三郎。


 一連の黒田の論考を読みながら、どうも、ake.は原発のことを、ずっと考えているようです。


 黒田は、詩というものからもっとも遠い場所に生きたとも思えますが、彼の「反詩」は、いま、読まれるべき詩だと、うし美もモウしております。

 ちなみに、ファミリーといたしましては、次郎(リスっぽい方)と五郎(トラっぽい方)がおります。あ、あと巨大なクマとかもいます。ん?太郎と三郎、四郎はいないのか?と。えぇ、いま南洋群島にフィールドワークに行ってます。もうじき帰国します。
 

 次郎と五郎はペルーの手仕事なんですが、可愛げのないぷんぷん顔です。


 それでは、みなさん、ごきげんようface01
ごきげんようついでに、今日は、うし三郎のレコメンド「北の宿から」をお送りします。うし三郎は、カラオケで演歌うたいたい方ですが、唄はジェンダーバイアスがかかりまくりなので、女友達がいちいち歌詞につっみを入れるので、カラオケが楽しめない今日この頃です。






 うし三郎、うし美。


  


Posted by ake. at 18:31読書日記

2012年01月14日

畑中章宏さん『今和次郎と柳田国男』平凡社新書

 

 あまりにも有名な柳田国男『山の人生』の冒頭.....

今では記憶して居るものが、わたしの外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで鉞で斫り殺したことがあった。女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じくらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てて居た。其子たちの名前はもう忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で帰って来て、飢えきって居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼ねをしてしまった。目が覚めて見ると、小屋いっぱいに夕日がさしていた、秋の末の事であったと謂う。二人の子供がその日当たりの所にしゃがんで、頻りに何かして居るので、傍らへ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いて居た。阿爺、此でわたしたちを殺して呉れと謂ったそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えも無く二人の首を撃ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。

 
 『山の人生』にはふたつの子殺しの話が書かれていて、やがて、罪を犯した彼らは十数年の牢獄生活のあとで、特赦を受けて放免になるのだが、どこかで「まだ抜け殻のような存在を続けているのだろう」と柳田は括っている。

 この作品の中では触れられていないけれども、飢えのなかで子を殺してしまったふたりの親を、牢獄から解き放ったのは、じつは、柳田国男そのひとだった。彼が法制局の参事官をしていたときの出来事だ。

 わたしが柳田国男を読むようになったころ、わたしの周りは柳田を批判するひとでいっぱいだった。柳田を批判するひとしかいなかった、と言っても過言ではない。けれども、わたしは、いつも『山の人生』を読むと、批判の意味が、分からなくなってしまう。山人論を柳田が「棄てた」ことへ対する批判も、分からなくなってしまう。

 いま、『山の人生』を読んだひとのなかに、飢餓のために、惨くも子を殺めた親へ「同情」をよせられるひとがどれくらいいるのか、と考える。たぶん、ふたりも子供を殺めてしまったことへの批難のほうが強いのではないだろうか。
 柳田が、あのとき、日本社会をどのように捉えていたのか、ということが『山の人生』には書かれてある。柳田は、貧しかった時代の「日本社会の罪」を考えたのだと、思う。そうでなければ、あの特赦はありえなかったし、その後の「稲」の柳田も見えなくなる。
 柳田は、とても深刻な、抜き差しならぬ「日本の原風景」を持ってしまったのだろう。

 前置きが長くなってしまった...


畑中章宏さん『今和次郎と柳田国男−震災に向き合う民俗学』平凡社新書


 




 畑中さんは、この震災のあとで、巨人ふたりと被災地を歩かれた。

 第一部が柳田国男、第二部が柳田の弟子でもあった今和次郎の構成になっている。
三陸の海嘯、関東大震災、民俗学者がどのように震災へ向き合ったのかが紀行文のように書かれてあってとても面白い。この新書に出てくるのは、ふたりの巨人ばかりではない、折口や熊楠、八雲、鏡花、賢治...伊東忠太など、あの時代の震災とひとびとの記録としても読めるし、戦前の東北振興や雪害研究といった「東北問題」も扱っている。

 本書のなかで、とりわけ、興味深かったのは、津軽のひと今和次郎の「バラックの発見」だった。
 
 今和次郎は、弘前生まれの建築家?!、いや民家研究家だ。しかも、限りなく「当事者的」感覚で民家を考えたひとなのかもしれない。わたしは、戦前の新聞で東北地方の様子がジャーナリズムでどのように書かれていたのかを読むことがある。凶作の年などに、都市から取材に来た新聞記者が、岩手あたりの「曲がり家」など見たときの書き方はとても酷くて、「ひとが馬と一緒に生活する醜悪!!」みたいなことがたくさん出ている。同時代に和次郎は次のように書いていた。

 
曲げて作られた土間には厩がとられる。厩の屋根には破風が出来ていて、竃や炉で炊く火の気はそこのところから出る仕掛けになっているから、火気は厩の上の屋根懐を通り、馬の背がそれであたたまるという事だ。土地の人たちは自分たちの飼い馬を何よりも大切にしているから、軍部の人たちys、一般の衛生の事を注意するひとたちに「厩を主屋から別棟に移せ」とすすめられても、頑として諾かないのである。「馬が痩せる......」と頑張るのである。自分たちがお湯に入らないでも馬には毎日土間の大きな竃で湯をわかして浴びせてやる。p24


 いま、建築業界の中で、気候とか風土ということを考えて設計するひとがどれくらいいるのか、わたしはよく知らない。きっといろいろ考えているには違いないだろうけれど、馬と一緒に住む家とを設計できる建築家っているのだろうか。電気もない時代、土間の竃や囲炉裏の暖気を利用して工夫していた、雪国の家だ。
 
 本書では、和次郎の「雪調」時代の話にも触れられている。一九三〇年代、農村厚生運動がさかんだったころ、雪害研究も注目されていた。一年のうち半年は雪に埋もれる北国の暮らし、そのことが「一年の半分は働けない(働かない)東北のひとびと」のように言われることもあった。都市での「出稼ぎ」前夜の話である。藁細工や木地などの副業で民芸品をつくるアイディアも、当時の柳などの民芸運動と融合したものだ。もっとも、和次郎は、民芸運動の持つオリエンタリズムをするどく嗅ぎ取っている。
 本書を読んでわたしは知ったのだが、今和次郎は、最近の「郊外論」や「団地研究」の元祖かもしれないと思う。郊外の生成過程のスケッチなどはとても面白い。

 そして、ようやくバラックだ。関東大震災以後、自然発生的にできあがった避難小屋...和次郎のスケッチをみると、それはまるで野外テントのようでもあるけれど、人が暮らす「最前線」のような出で立ちだ。そして、そんな避難小屋から、和次郎はやがてバラックを装飾して、街々の前線へ進出しようとまでしている。ここまで来ると、もはや「銀座でベゴを飼うダ」に通じる何かを臭わせる。

 もったいないから、あとは本書にあたってほしい。

 あ、でももうひとつ。
 柳田はかつて言っていたのでした。関東大震災のときはまだ帝都復興に余裕があった。しかしその後の戦争で、都市からひとの疎開を促進している...と。わたしは、なんだか、その言葉に...震災と原発事故が重なって重なってしかたがないのでした。

(終)

 



 


  


Posted by ake. at 03:45読書日記

2011年12月15日

『どぶろくと抵抗』野添憲治・真壁仁 編著、たいまつ新書。

  昨日は、ほんとうにたまたま、お酒の話をしたのでしたが、今日、ポストに偶然にも“どぶろく”の本が届いていました。face05奥付を見ると『どぶろくと抵抗』がたいまつ新書から出版されたのは、1976年だったのですね。この本、とても魅力的な本です。野添さんが送ってくださったのです。ありがとうございます。



 ↑この下の方の“百姓一揆”みたいなイラストがいいですね。


 
「自分で食べたり飲んだりするものを、農民たちが自分の田畑などから生産したものを材料にして、加工してつくるのは悪いことなのだろうか?」『どぶろくと抵抗』p2


 冒頭の野添さんの問いです。
 自家醸造が禁止されたもっとも大きな要因は、近代化する日本の国費財政の確保でした。家であたり前につくられていた「どぶろく」は、ある時から法律違反になりました。

 この新書のスゴいところは、最終章に「秘伝 どぶろくのつくりかた」なる聞き書きが収録されていることです。

 さ、この秘伝を読んで、ちょっと...わたしも。

 
昔のどぶろくづくりはだスな、はじめはもとだてするといって、もと酒をつくったものだス。うる米(うるち米)をといでから水に浸けて、桶とかカメの中に入れで二日〜三日もすればこんど、米コ浸けでおいだ水の表面さ、カビ生えでくるものだスもの。そのカビ生えできた時に、指入れでなめってみれば、少し甘い時とか、酸っぱい時とか、いろいろな味があるものでね......p164


 はい。もったいなくて、教えられません。「秘伝」ですから。

 「東北」を知りたいならだスなぁ、野添憲治を読むことだス。


左 野添憲治『出稼ぎ』三省堂新書、1968 / 右 野添憲治『出稼ぎ』社会評論社、2006 



 野添さんの手元に、「どぶろく」の方は在庫がすこしあるようです。問い合わせは...どうしようかなぁ。わたしに連絡をもらえたら、領布しましょう。書籍代と郵送費をご負担ください。おもしろいよ〜。face02

 
 

   


Posted by ake. at 01:31読書日記

2011年12月11日

須藤洋平 『みちのく鉄砲店』と津波。

 須藤洋平さんは、南三陸の詩人だ。

 彼のはじめての詩集『みちのく鉄砲店』を手にしたとき、たいへんな衝撃にうたれた。もう何年前のことだろう。

 実家へ帰ったとき、いちどは訪ねようと思いながら、ずっと果たせないままだった。訪ねたからなんだ、ということもあるかもしれない、結局自重した。同じ高校のひとつしたの学年だった須藤くんのことを、わたしは知らなかったのだから。こんなことを言うと、誤解されそうだけれど、こんなちいさな三陸の町に詩人の生まれたことが、わたしはとても、誇らしかった。

 このちいさな町である必然はなにもない、かも知れないにも関わらず。

 そして、わたしが勝手に、“詩”からいちばん遠い場所だと思っていたにも関わらず。

 けれども、生まれざるを得ないときは、やがて来るのだと思った。
 
 あの津波が来て、海の近くに住んでいるであろう須藤くんのことも、ずっと気がかりだった。きっと無事に違いないと念じていた。生きているということは、人づてに知った。

 こうして新しい詩集が出されたことが、ほんとうに嬉しかった。このところ、わたしは、自分を呪いたいような気持ちが渦巻いていて、でも、須藤くんの詩を読みながら、それはすこし薄らいでいくような気がした。

 今日は、思いがけず時間ができたので、先週ようやく、入手した『あなたが最期の最期まで生きようと、むき出しで立ち向かったから』(河出書房新社)を一日かけてゆっくり読んでいる。



 12月11日









  


Posted by ake. at 13:15読書日記

2011年03月10日

與那覇潤 『帝国の残影』

 
與那覇潤『帝国の残影−兵士•小津安二郎の昭和史』NTT出版、2011。




 村のおばあちゃんたちの人生を聞き歩いたことがあった。

 隣の家、その隣の家...その頃、私の身近には、齢80を越えるおばあちゃんがたくさんいた。

 そして、そんな聞き書きの中で、わたしは、ある事実を知った。

 村のおばあちゃんたちのほぼすべてが、1度ないし2度の「離婚」を経験していた、ということを。彼女たちは、まるで「離婚/再婚」話を、ありふれたことのように話してくれた。そして、その生涯に10人くらいの子どもをもうけ、そのうち何人かを幼くして亡くしていた。あまりにも遠い記憶、そして、あの戦争の混乱や生きることの厳しさの中で、子どもをいつ亡くしたのかさえ、曖昧なほどだった。
 
 「一生を添い遂げる」という、どこかで刷り込まれた通念が、わたしの中で、完全に崩れ去った瞬間だった。
 
 そして、わたしはそのとき、思った。

 わたしたちが今、当たり前のように考えている「家族」のかたちは、時間の流れの中で変転している、ということを...。


 與那覇潤の「中国化論」第2作目は、兵士•小津安二郎をめぐる映画論である。

 小津の作品は、私も観てきたはずだった。けれども、私には何も「見えていなかった」のだ、ということを與那覇の評論から知らされた思いがする。そもそも、私は「小津安二郎とはだれなのか」さえ、知らなかった。一連の作品からイメージしていた「わたしの中の小津安二郎」とは、映画の中の笠智衆のように、家族をそれなりに大事にしている父なのだろう、とさえ思っていた。けれどもそれは、浅はかな私のまったくの錯誤だった。

 小津は、あれほど「家族」を描きながら、じつは生涯独身を通したひとである。

 そして、與那覇は、次のように論じている。

 
独身稼業の活動屋人生という、同時代の社会における裏街道を歩いていた小津には、むしろ都市部での皆婚化というこの時期新しく始まった日本人の生き方こそが、戦争に淵源する巨大な暴力のもとで形成された、奇妙な様式であることが見えていたのだろうか。





 つづく...  


Posted by ake. at 02:05読書日記

2010年11月14日

傷を愛せるか。

タイトルすごいね。

宮地尚子『傷を愛せるか』大月書店。

 宮地さんの専門は医療人類学で、私がずっと気になっている研究者です。授業に出ていたこともありました。急に読書日記になっていますけれど、この本は、出版されてからすぐ読んでいて、いま読んだ本ではないのです。自分の研究とシンクロするなぁと思うことが時々あって、彼女の著作は概ね読んでいるのです。面白いしね。

 今日のブログは、なんの脈絡もないし、「傷を愛する」話をするわけではないのです。
 宮地さんはスキューバで死にかけたことがある、その出来事をこの本の中で書いていて、その記述が「美しすぎて、ほんとうか?」ってひとがいたので、ちょっとフォローしておこうと思って...。


引用されていた文章。
 

わたしはマウスピースを口から離してしまった。そうして深呼吸をし、きらめく水面に向かって浮上していこうとした。細かい泡と陰影の踊る光の水の中を。
 そのときわたしはたしかに喜びを感じていた。喜びというのが大げさなら、解放感といってもいい。
・・・・
 でもわたしはあのとき、確実に幸せだった。いってはいけないことのような気がして、これまでほとんどだれにもいわずにきたけれど、死にたかったわけではない。目の前にあったのは、わたしが向かっていったのは、死ではなかった。ただ揺れる水の影と輝く光、そして果てしなく広がる、大気と波音と希望に満ちた空間だった。
(25〜26頁)


 軽度の“減圧症”かなと思います。
 海の中では10メートル下降すると1気圧上がるので、海底から水面へ急上昇したりすると減圧症になることがあります。とても危険なことなのですが、軽度の症状の話を聞いたりすると、脳内の酸素量の影響などで、ちょうど酔っぱらったような感じになって、自分で口からマウスピースをとってしまったりしてしまうらしいです。その時は、やっぱり解放感を感じるらしいです。
 スキューバでは上昇するときも下降するときも、10メートルごと気圧に身体をならします。重い酸素ボンベと腰にはウェイトをつけているので、ベストの酸素を思い切り抜くとストーンと海底に沈んでしまうし、逆にベストに酸素を思い切り入れれば、急上昇してしまいます。
 
 そんなことで、おやすみなさい。

 
 
 

  


Posted by ake. at 23:26読書日記

2010年08月10日

続 野添憲治の戦後民衆精神

 今日は日韓併合100年の首相「談話」が発表されるようです。
 
 社会評論社から野添憲治さんの『遺骨は叫ぶ』が刊行されました。8月15日の発行日になっています。





 日本での全国的な強制動員ネットワークや真相究明団の遺骨発掘作業によって、犠牲者の遺体が国内のいたるところで掘り起こされました。日本の土の下には、戦時中に強制動員された犠牲者の遺体が、まだまだ多く残されていると言われています。遺骨発掘にかかわる費用の多くは韓国政府からの予算によるもので、2000年に当時の盧武鉉大統領が「日帝強制占領下強制被害者真相究明等に関する特別法」を成立させたことではじまった調査です。本来ならば日本政府が行わなければならないことでもあります。ともあれ、李明博政権後の今年3月、真相究明調査組織は予算削減対象になり、全面的に廃止、組織改編されました。

 私も2月の末にソウルにある真相究明団の事務室を訪ねたのでしたが、膨大な資料で埋め尽くされていました。担当者の話によれば、30万件を超える被害届がだされているとのことでした。

 大多数のひとが戦後、この問題を避けて通ってきました。そのような社会的風潮の中で、野添さんが「わたしはなぜ戦争に固執するのか」と自問する姿に、時折、出会いました。見たくない、触れたくない現実を照射しようとすればするほど、野添さん自身の葛藤も深くなったことは、確かだと思うのです。日本社会が隠蔽してきた事実を暴くことの、想像を絶するような困難に、家族をも巻き込みながら、その生涯のすべてをかけて、彼はいまもその作業を続けています。「野添さんは、東北の良心だよ」と言ったひとがいました。

 アジアの多くのひとたちにとって、依然として、戦争は終わってはいないのです。
  


Posted by ake. at 04:34読書日記

2010年04月15日

佐伯一麦『石の肺』新潮文庫。

 なんとなく感慨深い4月のはじまりだった。

 “地殻変動”とでもいえばいいかな。でも、それはなかなかに苦しくもある“変動”であって...。「生きることがそれだけで途方もないエネルギーを必要とする時代なのかもしれないね。」だれかがつぶやいていたけれど、ほんとうにそんな時代。でも、それも悪くはない、と思える。

 学部のとき、ティコが佐伯一麦の文庫本『ア•ルースボーイ』を古本屋から50冊くらい買いこんで“松亭”にあそびに来たひとたちに配っていたことがあった。一軒家の“松亭”は、老朽化で取り壊しになるらしく、先月末に「もうさ、みんな出ることになったんだ」と聞いた。

 あの頃、2階の住人で小説書いていたオカミは、ちょっとウツっぽくなっていて「あーもーオレ死にてー」って叫ぶものだから、隣の大家さんが心配して「死にたい」って声が聞こえるんだけれど大丈夫なのかってやってくる始末だった。「オレ今日久々に外出て、近くのマクドナルドまでリハビリに歩いているんですよ」って...どんなリハビリだよって思っていた。

 その“松亭”をはじめたティコが、いつだったか「この小説すっごくいいんだよ、ねえ、ほんとうにいいから、読んでよ」って一冊手渡されたのが、佐伯一麦だった。
 
 その小説は、ほんとうに素敵だった。
 “生きることがそれだけで途方もないエネルギーを必要とする時代”に、それも悪くないって思える物語りが描いてあった。佐伯一麦の手堅さってそこにあると思う。

 佐伯さんが描く“電気工”には、どこか秘密めいた奥行きの深い生活観がある。屋根裏の真っ暗闇の中で電気の線をつなぐ生活。それが、どこまでもどこまでもつながってゆく。

 佐伯一麦は、若い頃に小説を書きながら、妻と子どもと生活するために電気の配線工をしていた。アスベストが塗り込められた密室の屋根裏で仕事をすることが多かったため、いまもずっと喘息を病んでいる。『石の肺』は、社会問題ともなったアスベスト問題をめぐるルポルタージュ。家族を支えるということとアスベストを吸い込むということの危うい取引をひきうける電気工のおかれた状況を、佐伯は自覚的に記述するのだけれど、それさえ独特の生活観が漂っている。



 ってブログる。

 二日ばかりおそろしく不眠になっていて、論文を書きはじめると脳がそういうふうになってしまうのだと思う。それで夕べようやく眠れたので、今日は2限さぼったのでした。電車の中で読んだ佐伯がなかなか良かったのでした。
  


Posted by ake. at 13:37読書日記

2009年12月16日

野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社

 ひとは、どうしたら「怒り」とか「憎しみ」というものを心の奥底に沈めて生きてゆけるのでしょうか。私は野添さんの本を読むたびに、どうしてこんな苦しい仕事を40年も続けてこられただろうと思うのです。

 野添さんが「戦争責任」について言及したはじめてのルポルタージュは、1960年代の『思想の科学』誌上における「花岡事件」でした。あれからもう半世紀が過ぎようとしています。野添さんは、いまもその仕事をずっと続けています。私には、とても穏やかな野添さんの心の底に、ほんとうは仁王のような「憤怒」の炎がひた隠しに沈められて沸々と滾っているのではないか、と思われることさえあるのです。

 本書は、日本企業135事業所を取材し、中国•朝鮮人強制連行の暗澹たる「客死」の記録を綴ったものです。この仕事を野添さんは66歳からはじめました。これらの「記録」は企業によって隠蔽•抹消されたものがほとんどであり、掘り起こしの聞き書きを行うことそれ自体が困難、苦痛を伴う仕事だと思うのです。

 鶴見俊輔さんがいつかいっていたそうです「国家が犯した罪を国家が償わない時は、民衆が手弁当でその罪を償わなければいけない」と。野添さんは、ほんとうに手弁当でひたすら、この仕事をしてきたのでした。私は、ほんとうは野添さんに「ガクシン」をあげたい。
 


野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社。


室蘭駅(JR室蘭本線)に下車したのは、北海道にもようやく春の訪れが感じられる四月下旬の小雨の日だった。アジア太平洋戦争の時は北海道でも屈指の軍需工場と重要湾岸都市であった室蘭市は、敗戦後も石炭と港を中心に栄えてきた。しかし現在は、北海道全体が不況で底冷えするなかで、室蘭市も元気がないなと駅をみまわしながら思った。

 駅前に並んでいるタクシーの中から、年配の運転手を探して乗った。戦争中のことを調べる時は、若い人よりは年配のほうがよく知っている。走りだしてから行き先を聞くので、
 「五〇年ほど前に、中国人の遺体が沢山掘り出された所があるでしょう。そこに行って下さい」
 「えッ、そんなことあったんですか、沢山ってどれくらい……」
 「一二五体だったようです。病気とか事故で亡くなった中国人を、土の中に放棄したんですよ。一〇年間も……」
 「そんなことないと思うがなあ……」
 と言いながら運転手は、無線で本社と連絡をとった。よくわからないらしく、何人とも話をしていた。
 「お客さん、イタンキ浜のことですか?」
 「あ、そこです」
 小雨のイタンキ浜に下車した。吹きつけてくる風が寒い。

 アジア太平洋戦争の時に室蘭市の五事業所へ、一八六一人の中国人が強制連行された。このうち五六四人が死亡したが、死体の処理がずさんだった。一九五四年に市民の証言で、イタンキ浜で遺体発掘がおこなわれた。三〇体くらいといわれたが、「遺体の数は多く、雑然と折り重なって埋められており、いまだに頭髪が頭蓋骨に付着しているものもあった。立会の医師が、“まだ呼吸のあるうちに放りこまれたもの”と認定したのも、まさに土中からはい上がらんと、必死にもがいている形のままで埋没している遺体、頭蓋骨に弾孔のあるもの、鋭い傷とヒビのある遺体、作業地下足袋をはいたままの遺体」(『中国人強制連行事件に関する報告書』)が二日間で一二五体も発見された。……(はじめに より)


  


Posted by ake. at 16:32読書日記

2009年11月06日

食国とまつろわぬもの。

 昨日からようやく、博論の序章を書きはじめた。研究室から帰ったのは朝方4時近くで、たぶんこんな生活がこれから1年くらい続くのだろうと思う。近ごろ、お肌ガビガビの肌地獄なんである。仕方ないけどなぁ。

 今日は一日中、折口信夫と坂部恵を交互に読んでいる。
 さっきブログを見たら、ちょうど去年の11月に坂部恵『かたり』の読書記録を書いていた。秋になると坂部さんの本が恋しくなるのかもしれないな、と思った。

 今年の6月、坂部さんは73歳でお亡くなりになった。私は今日になるまで、そのことを知らなかった。何だか、今日はすこし寂しい気持ちでいる。研究会でご一緒させていただいているドイツ哲学の藤野さんが「図書新聞に坂部さんの書評が載っていた」と教えてくれた、半年ほど前のことだ。坂部さんがそのとき紹介していた本は、音読CD付きの本について。「私事だが…」と断って、坂部さんは自身が長い間闘病中であり「失読症」であることをうちあけた。目で文字を追ってもその意味が解らず、耳で聞いたことの意味は解せる自分にとって、音読付きの本はとても有り難いものだというような内容だった。それは、とても衝撃的な話だった。そうか、とうとういなくなってしまったんだな…。

 昨日、図書館の棚を眺めていたら、『坂部恵集』をみつけた。不意に5巻目を手にとって、めくると「「まつろわぬもの」の「まつり」」という小論が目にとまった。博論の序論で自分が書きたいことと不思議にリンクしていた。

 もはや「異端」が存立できるような世界ではなくなっているのかもしれない。そんなことを切実に思った夕方。

ともかく、「まつり」も「まつりごと」も、消え失せたとはいわぬまでも、すくなくともひどくかげの薄くなった、「神なき時代」、「父なき時代」としての今日、さきにみたように「異端」にたいする「正統」は世俗的なものでこと足りると一応はいえるとしても、ここまで「世俗化」が進んでしまうと、「まつろわぬもの」として生き通すこと、ないし死に場所を求めることはひどくむずかしいのだ。蛇足めいたことをいえば、それは、「実在的」な決意やアンガージュマンをつらぬいて生き通し、あるいははれやかな死を死ぬということが、かつて「実存主義」の盛行の時代におもわれたよりも、すくなくともずっとむずかしいということにほかならない。(坂部恵「「まつろわぬもの」の「まつり」」)


 「まつろう」という言葉の語源が「まつり」だということは、日本語を母語としているものにはなんとなくわかるだろうと思う。「まつり」とは、折口信夫の語るように、「食国(おすくに)のまつりごと」である。「まつりという語には服従の意味がある。」

古い時代のまつりごとは、穀物をよく稔らせる事で、其報告祭がまつりである事は、前にも述べた。此意味に於いて、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来る様にせしむるのが、食国の政である。(折口信夫『大嘗祭の本義』)


 食国の政は、豊かな穀物で(を)「たいらげる」こと、そして「まつろわぬもの」は、そのような範疇にないもののことを意味する。もはや、そうのような意味での「まつろわぬもの」の存在が不可能であること、そうして、同時に思っていたことは、津田左右吉のあの1946年の平泉のこと。

 さて、ake.はいちおう船出しました。オールもちっちゃく、泥舟っぽいこの小舟…いったい何処へ行き着くものやら。
 
 

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Posted by ake. at 17:08読書日記

2009年09月07日

『手仕事の日本』

 それ以前には、荒物とか下手物と呼ばれていた物々を“民衆の工藝”という意味で「民藝」と名付けたのは、柳宗悦でした。

 はじめて柳の本を手にとったのは、手作りで地域雑誌をつくっていた頃に民俗資料館の「箕」を調べるために手にした『手仕事の日本』でした。こんなことをやっている人がいたんだ、と素直に嬉しかったことを覚えています。今や「民芸品」といえば土産物屋に売っている“あれ”なのだけれども…でも、いま売られている“あれ”はちょっと違うんだな。なぜって“民藝”は、はげしい仕事にも耐えられる丈夫な物でなければならない、というのが柳の持論でもあったからなのです。そこにこそ「健康の美」「用の美」があるらしい。

 柳宗悦『手仕事の日本』


 あと4日で論文の〆切だというのに、この1週間フルタイムで展示のお手伝いをしていました。でも夢みたいに楽しい時間でした。

木喰仏

 木喰は遊行僧で、生涯に1000体くらいの木彫りの像を残しています。もうひとり有名どころでは円空がいます。民衆の苦しみや願いをきいてくれる、微笑みをたたえた親しみやすい顔です。柳は木喰の発見者でもありました。
 
雑誌『工芸』

『工芸』は、昭和6年から限定版で120号まで刊行されましたが、1冊1冊の装丁がなんと手作りなのです。表紙の布はもちろん本物の津々浦々の織物で、版画や漆で表題が書かれていたりします。本それ自体が職人による工芸品でした。希少本なので、古本でも揃え200万円というすごみです。face08

 今回の展示は、柳宗悦の生誕120周年特別展で名品ばかりです。ご興味のある方はぜひどうぞ。face02
http://www.mingeikan.or.jp/

棟方志功「華狩頌」
  


Posted by ake. at 04:53読書日記

2009年07月12日

柳宗悦『民藝の趣旨』



 最近、アドルノを読む機会があって、アドルノの美学って柳宗悦の美に通じるところが少しあるなと思ったのでした。もっとも、アドルノは民藝なんて興味ないに決まっていますし、柳の『美の法門』は仏教を基底に考えられているのですけれども。face17

 ほんの時々、このブログでも日本民藝館について触れてきたのですが、私のお気に入り博物館の最上位のひとつです。日本だけではないのだけれども、企業博物館や官営博物館で独自な「思想」をもっているところは、ほとんどないと言っていいでしょう。民芸館のコレクションは決して高価ではないけれども(なにしろ民藝なので)、しかし「思想」があるのですね。その「思想」の良さや限界についての判断はそれぞれですけれども、ここが希有な博物館であるということは、言えると思うのです。

 ショップで300円で売っていた柳宗悦『民藝の趣旨』(1933)。気になったところを、引いてみます。

 民藝は異常なものであってはならないのです。それは平凡にまで高まらなければならないのです。読者よ、此世には異常なものより通常なものの方が、遥かに意味深い場合があるのを知って下さい。若しも吾々が健康な體に帰るなら、あの巧みな歩行を、無意識に平易に行ふではありませんか。それは実に平凡極まる事に迄なっているのです。否、平凡となればこそ、かくも巧みに歩けるのです。民藝も此平易さに於いてのみ成就するのです。それが健康に発達するなら、平凡な民藝とこそなるでせう。その時程民藝が非凡になる時は無いのです。(38頁)



 これが書かれた1933年(昭和8)というのは、私にとっては妙な感覚を呼び覚ます年号で、「あぁ宮沢賢治が亡くなった年だな」とか「ファシズムがせまっているな」とか、自分は生まれていないけれども、ザワザワした気持ちに襲われる時代です。そういう時代状況を思い起こしながら、柳の文章をもう一度読み始めると、民藝について書かれたこの文章が、また違った意味合いで読まれるな、とも思っていました。
 しかし、そこで「平和」という言葉使いをしたくはないのです、それはなぜかと言えば「平和」という言葉使いが生活感に肉薄し難い言葉のような気がするからです。最近、柳を形容するのに「平和」という言葉を聞くようになりました。でも、どうもしっくり来ないのです。とりあえず、柳が使った言葉のまま「健康」という言葉の中に「平和」という意味合いも含み込んで、「健康」とは何かということを思ってみます。「健康」が揺らぐということが、いったいどのような危機意識を人間にもたらすのか、ということを。そもそも「健康」など存在するのかという問いも含めて、1933年という「不健康」な時代状況を問い返してみたいのです。

 おそらく、「健康」と「美」ということは、容易に両立できる概念ではないのですね。それが、もっとも柳を読む上での困難だとも思えます。アドルノも、そういうことには気がついているように思えます。

 ヒトラーが絵描きだったことの「謎」もそんな問いのひとつかも、と思ってみたり。
 


 


  


Posted by ake. at 03:45読書日記

2009年05月28日

『可能性としての歴史』

鹿島徹『可能性としての歴史』岩波書店、2006


 「歴史」が、どこかで誰かを追いつめているとしたら、そういうことに気がついたひとは、きっと同じことを考えるだろうと思う。この前、勉強会を途中で抜けなければならなかったのがとっても悔しかったけれど、酒井直樹が「文明論的転移」という言葉で語ろうとしていたことにも繋がってくるだろうと思う。ベンヤミンもアドルノもそのひとりだと思う。
 
 かつて大黒俊二は「歴史学と言語論的展開は不幸な出会いだった」と言っていた。それは、「従軍慰安婦」の証言と「自由主義史観」の登場という事態の中で、「物語論的歴史」は政治化していったからだった。p7

「歴史家は、テクスト外的事象がテクスト化される以前の意味を取り戻すため、支配的言説がテクストの周辺に追いやった意味の断片を寄せ集め自分自身の言説を作り上げる。」(斉藤晃)

 
物語り論的歴史理解は、歴史言説の遂行論的分析にとどまるものではない。それは歴史性という基礎構造をも「物語り」という観点から照射することによって、現に物語られている歴史の抑圧•隠蔽作用を明るみにだす。とともに、「歴史の物語り」において不断に生起している異他的なものとの出会いという深層次元を開示して、新たな語りへと向かいうる歴史探究•歴史叙述の「制作的」な本質性格、その不断の自己生成構造を解明し、活性化するものになりうるであろう、と。p32


とはいえ…

「どの理論がヘゲモニーをとるかはきわめて政治的問題である」(佐々木啓)
涙

 さ、明日もはやいし寝るか。


 
  


Posted by ake. at 03:40読書日記

2009年01月16日

安藤昌益『統道真伝』

 2年前の今頃は、中江藤樹と熊沢蕃山に導かれて心学の虜になっていました。いつか、王陽明まで到達できたらいいなぁと思っています。同じ頃、安藤昌益という人がとても気になっていたのですが、本を実際に手に取ったのは、東京へ移ってきてからでした。取り上げたいとは思いながら、修士論文でも扱うことはありませんでした。この半年ほど、全集の購入をためらっていて…でも図書館から借りた本に線も引けず、部分的にコピーをとっては歯がゆい思いをしていました。涙どういう神のお告げなのか、もらっちゃったぁicon06だから今年は、いただいたご恩に報いるように、安藤昌益loverで頑張ろうと思います。icon06

 手元にある辞書によれば、安藤昌益(1703?-1762?)は、江戸中期に出羽秋田藩領の秋田郡二井田村に生まれました。1744年には陸奥八戸藩で町医者を開業し、1950年代に『自然真営道』を著したと推定されています。この書物では、当時の身分制社会と儒仏思想を痛烈に全面的に否定し、支配•非支配関係のない、万人が「直耕」に従事する「自然の世」を提唱しました。また、晩年(1758)は再び故郷へ戻り、凶作による村の疲弊を救済し、自ら「守農大神」を名のった不思議なひとでもあります。
 明治期になって、狩野亨吉が彼の書物を発見し、第2次世界大戦後はハーバート•ノーマンが『忘れられた思想家-安藤昌益のこと』を出版し一躍有名人になりました。かつて、狩野亨吉が昭和天皇の教育係に推薦されたとき、安藤昌益のような研究をする「危険思想の持ち主」であることを理由に辞退したことは有名な逸話です。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000866/files/2653_20666.html

 引用文献 『安藤昌益全集』農山漁村文化協会、1987。

 『統道真伝』
[聖人、自然ノ真道ヲ失ルノ事]
 君主ヲ立ツルハ奢リノ始メ、万悪ノ本ナリ。人欲ノ始メ。(君主をたてることが、奢りのはじめであり、万悪の根源、人欲のもとである。)




   


Posted by ake. at 06:28読書日記

2009年01月09日

ダナ・ハラウェイ 『猿と女とサイボーグ』



 しばらく前に、この本について少し触れていたのですが、今日はこれから報告があるので、レジュメの準備のついでに書き込みたいと思います。そういえば、校長先生が「千夜千冊」でこの本を取り上げていました。でも、校長先生ははじめのところを少々読み違えているのではないかとも思われるのですが…face13ハラウェイはフェミニズムの議論は科学と同じように、「公の知」をめざす「神話」だと論じています。ハラウェイの議論がちょっと読みにくいのは、皮肉と逆説が入り混じっているからだと思うのです。ハラウェイの「真の知」という表現は、アイロニカルな色合いを帯びていると思います。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1140.html

 4・5章を読んだ後の正直な感想を言ってしまうと、「私が一番苦手とするフェミの議論が集中しているような箇所だなぁ」というものでした。私は、方法論に言説分析を取り入れているということもあって、ハラウェイの議論に同意できる部分は多いのです。

 特に次のようなハラウェイの自戒に満ちた果敢な議論には、目を見張るものがあります。

 この章は無垢ではない。本章は、利害関係にみちた物語り‐すなわち人間の本質や人間の持つ可能性に関わる物語りに欠かせないライフサイエンスという領域で、フェミニズムの立場から、公の科学が持つ意味についての問いを立てるうえでの手がかりを探すという物語り‐である。したがって、フェミニズムは、ある意味で、公の生活や公の意味の数々を構築しなおすプロジェクトである。したがって、フェミニズムは新たな物語りを探る作業、すなわち、可能性と限界についての新たな見方に名前を与えるようなことばを探る作業である。つまり、フェミニズムは科学と同様、神話であり、公の知を求める議論である。
P158


 もっとも、過去にあった出来事を、歴史社会学という立場から言説分析に取り組んできた不肖ake.としては、「作法」として守りぬいていることもあります。それは、同時代の状況を超えたエピステーメーから、彼/彼女を断罪することは差し控える、というものです。意味の網の目の中で思考を構築してゆく人間は同時代の「認識」から自由ではありえない、だから、現在から過去に向かって彼/彼女を一方的に断罪することはとてもできないという思いもあります。ハラウェイにとって、そういったフーコーの方法論は生やさしいものに見えるかもしれません。もっとも、いくら「断罪」を差し控えると言っても、同時代の状況における「思考の限界」については、幾重にも指摘しなければなりません。
 ハラウェイの議論がちょっと苦手に思えたのは、たぶん、そんな理由だと、自分では思うのです。

 ただし、フェミニズムの論客が戦略として選びとった方法論には、積み重ねられてきた過去への厳しい「断罪」がつきまとうとはいえ(そのために誤解され、忌避されてしまうこともあるのですが)、歴史的に劣位に置かれてきた「性」を回復するためには、重要な議論であるということは言うまでもないことなのです。それがフェミニズムにおける「真の人文主義」を切り開く手立てでもあるだろうと思います。「真の人文主義」というのが誤解をもたらす表現であるならば「戦略としての人文主義」と読みえればいいと思います。
 もっとも、ハラウェイの議論の仕方をつぶさに読み進めるならば、進化生物学における「知の考古学」を展開していることは明らかで、「公の知」を物語りすることの危うさを十分に理解していることは伝わってきます。

 たとえばハラウェイは、猿のラングールをめぐる物語がいかに構築されたのかを、その「知」のコネクションを暴くことで、解体して見せるのです。

生きた霊長類を、注意深く、ルールにのっとったかたちで、人間の生活様式の各種側面のモデルとして解釈するという要請……ウォッシュバーンの父系の系譜による実践の所産として、もっともよく知られているのは、一九六〇年代の「人間=男性=狩猟者」仮説だろう。この仮説の提唱するところによれば、類人猿という系譜にあって、当時の生態学的条件として予測される条件のもとで、人間としての生活様式を実現した進化的適応として決定的存在であったのは、新たなる食料調達戦略に伴う適応‐すなわち社会的協調、学習した技術スキル、核家族、そして最終的には十分に象徴的な言語といったものに基づいたその後の人類の生活様式と密接な関係を持つことになった生存のイノベーション‐であった。霊長類のフィールド研究の相当部分を優に十年以上にわたって導いてきた男性=狩猟者仮説の根本にある要素が、協調と社会集団‐適応によって獲得された協調と社会集団という主要な要素‐にあった点については、最初から強調しておくことが大切だろう。


 そして、ハラウェイは、霊長類研究の権威であったウォッシュバーンの経歴や研究業績、果ては研究費の助成機関まで追跡するのです。「知」がまさに創出される生々しい現場をさらすのです。

 たとえばルーマンの議論にもありますが、人間はコミュニケーションの関係性の中で、社会的に存在している。社会生活を営むうえで、互いに全く意味の通じない言葉で疎通することが不可能な生きものです。これはフーコーのテーマでもあるのですが、他者が介せない「呪文」のよう言葉を操ったとすれば「狂気」や「混乱」とみなされることになる。個人が、社会的存在として存立するためには、他者に伝わる「ことば」を使わなければなりません。

 では、なぜウォッシュバーンの1960年代のMan-the -hunter仮説は有効に機能し、霊長類にコネクションを持つ大多数人々に受容されたのでしょうか。ハラウェイの議論には不在の、ぽっかりと小島のように浮上した「起源物語」を取り囲んでいる大海原を見渡してみたい思いに駆られるのは、私だけではないと思うのです。
 

 

   


Posted by ake. at 12:13読書日記

2008年12月18日

言霊とかたり。


坂部恵 『かたり』、ちくま学芸文庫、2008。(底本は弘文堂、1990。)

 記憶が曖昧になっているけれども、幕末に政治不安と世直しの風潮が社会を動揺させていた時期に、どこかの殿様が、歌を詠じて領内のあらゆる神社に奉納した…という話を聞いたことがある。言霊の呪力を信じていた、とも思う。

 私たちの「常識」で考えるなら、政治不安が蔓延している状況でリーダーシップを執るべきひとが、和歌を詠じて社会状況を何とかしようと神頼みしているなんて、ちょっと情けないと思う。けれども、現代社会にだって「風評」とか「噂」は恐ろしいもので、言葉に「霊」が宿るとまでは考えなくなっているけれども、<言葉‐世界>の相互関係ということには、とても興味をそそられる。<かたり>が<世界>を構築してゆくことの怖さということが、気になる。

『かたり』
…「はなしにならない」という表現は、日常ごく普通に使われるものだが、一方、それにひきくらべて、「かたりにならない」という表現は存在しない。このことは、「はなしにならない」<はなし>はありうるが、「かたりにならない」<かたり>は一種の形容矛盾で、そうしたものは元来ありえないという暗黙の了解が存することを意味する事柄とみなすことができるだろう。いいかえれば、それは、起承転結のまとまりを失った「はなしにならない」<はなし>がありうるのにたいして、<かたり>はそもそも起承転結のまとまりを欠いてはおよそ<かたり>として存立しえないことを意味すると考えられるのである。<かたり>は<はなし>よりも(二重化的)統合、反省、屈折の度合が高いといったゆえんである。


はなし―かたり―うた
いうまでもなく、この図式において、上から下へ進むほど、二重化的統合、超出の度合、反省的屈折やあるいは凝縮の度合は(<しじま>に向けて)高くなり、さらにいえば、水平の言語行為から垂直のそれへと移行するにつれて、個人的主体と共同体的主体(さらにはいわば宇宙そのもののいのち)がオーバーラップする度合もまたおのずから高くなる。


われわれは、<かたり>という言語行為に本来内在すると考えられる二重化の構造の顕在化のいまひとつのより大規模な例が、<かたり>ないしは<ものがたり>における<作者>と<語り手>の区別というしばしば論じられる事柄のうちに存することに思いいたる。古形においては、たとえば、<巫女>とそれに憑いた<もの>ないし<もののけ>との二重化的超出ないし二重化的統合の関係として典型的にあらわれたものであろう、こうした<かたり>の二重構造において、われわれは、<かたり>の主体の位相が、いってみれば共同体の共同性の(時として欺瞞的な)創出基盤ともなる遠い神話的記憶の一種垂直的な時間の次元と交錯し、その範型的な生のかたどりの力の一端にあずかる現場に立ち会うことになる。

  


Posted by ake. at 06:03読書日記