スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by だてBLOG運営事務局 at

2010年12月10日

耕作 その2

 延坪島のことについては、毎日のようにTVやMLでもいろいろな情報が届いているけれど、正直なところ、あまりよくわからない。一昨日、仁川に泊ってソウルへ昨日もどってきた。海の上にぽっかり浮かんだインチョンの沖合120キロくらいむこうにヨンピョンドがあるんだって、タクシーのおじさんが教えてくれた。ヨンピョンドからインチョンに避難している島民もいる。

 ともあれ、こちらでの日常生活の中で、砲撃の話題がのぼることはほとんどない、と言ってもいいかもしれない。無関心というのとは違う、お互いバカなことをしている、とみんな怒っているからだ。

 そして、いまのところ、私がこの間に会ったひとたちのすべては、軍事演習にも韓国軍の攻撃に対しても「あんなことしちゃいけない」と言っている。安東で出会ったおじいちゃんたちも、「互いに、あんなことしてはダメなんだ」とはっきり言っていた。少なくとも、私の周りでは、軍事演習なんて誰も望んでなんか、いない。

 先週、延坪島の島民から「アメリカ軍と韓国軍の挑発行為を止めるよう」声明が出された。北朝鮮からの砲撃以前に、韓国軍が3657発の実弾砲撃を行ったことは韓国政府も認めている。着弾の場所については議論があるものの、日本の報道だけを見ていると、錯誤が生じると思う。


 真相究明委員会の仕事

 ノムヒョン政権時代に立ちあげられた糾明委員会は、来年12月ですべての仕事が終了することになった。生存者調査については、2月に打ち切りになる。まだまだ片付かない申請資料が積み上げられていた、連行者情報は23万件にのぼる。韓国内の各自治体に申請された書類をもとに、ひとりひとりの被害者に電話調査、面談調査を行い、補償金(否、正確には補償金ではないのだけれど)の審査をおこなう。手続きは民事裁判で行われている段取りを踏襲している。だからとても時間がかかる作業でもある。
 そんなことで、いつだったか「最期の局面」と言ったけれど、今回の生存者情報は、いま入手できなければ、もう後がないのだ。

 来年の12月に糾明委員会が廃止になったあと、この資料は国家記録院に保管されることになっている。たぶん、大田だと思う。それから、いま釜山に博物館の建設が進んでいて、糾明委員会に集められた資料などを展示することになっている。この博物館は2012年の開館が決定していて、強制連行だけの資料が展示されることになっている。

 この箱が、そのうち山積みになって、国家記録院に保管されることになるだろう。


クリップでまとめられた束一冊が、ひとりの調査情報


このロッカーひとつが、委員会職員ひとりぶんの仕事量になっている。



 過酷な鉱山労働のなか、食べるものもほとんどあたえられず、立っていることがままならない時もあった。それでも、監督が棒で殴りに来る。いまでも、自分を殴った監督の名前を、おじいちゃんは覚えていた。 

 
 野添じいちゃんは、情けなく思う、と言った。そして、苦しんでいる人、大変な思いをしているひとを助けられない日本人について語った。野添じいちゃんは、この状況は、戦時中の「非常時」に限らない、ということもあえて語った。野添じいちゃんは、「日本」のそのことが、たぶん、とても気にかかっているのだと思う。
 



  


Posted by ake. at 13:11韓国日記

2010年12月06日

耕作 その1

 ほんとうに、どうでもいい話なんだけれど、安東のDESCENTEのショーウィンドーに「デサント」の帽子を被ったマネキンがいた。デサントに「デサント」の帽子が売っているのはあたり前なんだけど、これ、売り物なのかなぁ。












じいちゃんの家は、山の中のちいさな村にあった。くねくねの山道を1時間くらい車で登ってきた。





あ、あれっ?約束していたんだけれど...おじいちゃんは留守のようだ。どうしよう。。。






そこで、隣の家のおじいちゃんに聞いてみた。さっきまでいたんだけど、薪とりに山へ行ったかも知れないって...山の方を指さした。ここの村には、子どもも若者も住んではいない...ものすごい限界集落だ。






「どうしようね」って思っていたところに、おじいちゃんが山から下りてきた。すごく重そうな薪を背負って、全身迷彩だ!ある意味...かっこいい、と思った。イカシテルicon06





韓国のおじいちゃんと日本のおじいちゃんの出会いでした。






 苦しいことや悔しかったことを、語れるひともいるし、語れないひともいる。
 まだ「仕事」も終わっていないし、頭も整理できていないので、続きはそのうち。







 

  


Posted by ake. at 22:07韓国日記

2010年12月02日

ひょっとすると耕作者か...朝鮮特需のこととか。

 昼過ぎ、仁川空港へ我がハラボジを迎えにいく。

 「ぼく、この生存者の方すべてに会うつもりです」とハラボジは、電話でつぶやいた。そ、そんな大変なこと...と、私は内心思いながら、途方に暮れた。でも、このひとならやりかねない、と思う。穏やかな人柄の内側に、烈しい怒りをもっているのだと思う。

 ほんとうのことを言えば、請け負っちゃったけどな...どうすっかな...なんて迷ったりもした。けれど、やっぱり引き受けて良かった。「ぼく、この生存者の方すべてに会うつもりです」と野添さんが言ったとき、腹はきまった。

 野添さんの花岡事件の連載がはじまったのは、もう50年前の『思想の科学』だ。人生のほとんどを、こうしてすごしてきたのだ。「家族にはすまないと思う」と時々つぶやく。その家族が、ほんとうにすごいと思う。


 ソウル市内からのバスの中で、朝鮮戦争の話になった。
 あの時、地方はどうだったのか。

 新潟へは、米軍犠牲者の遺体が次々に運び込まれ、医学生たちが遺体を縫い合わせて復元するという作業が日夜行われていた、という。アメリカは、戦場で犠牲になった兵士の遺体をできるうる限り完全な姿で遺族へ返還するのだ。もう、そんなことを知っているひともいなくなったよね。
 もちろん、このような仕事には、米軍から日本政府への依頼があるわけで、いろいろ資料も調べればあるのかもしれない。
 こういうのね、研究している人いないんだよね、と。

 秋田はね、秋田杉がものすごく売れてね、特需が起こった。
 米軍の戦車の枕木に、ベニヤ板を持ってきたけれど全然使いものにならないってことで、大量に秋田杉が売れて行った。代金なんて、先払いなんだよね。

 
 さて、この1週間、どんな出会いと悲喜劇がまっているのでしょうか。








  


Posted by ake. at 23:36韓国日記

2008年10月26日

朝鮮半島へ進出した植民地地主のこと。

 帝国主義時代における、朝鮮や台湾での「産米増殖計画」について調べるようになって、ほんの1年くらいです。韓国の留学生から、韓国の高校教科書を見せてもらったことがきっかけでした。産米増殖計画と東洋拓殖会社の収奪状況について、見開き2ページにわたって記述がありました。日本の高校生はほとんど知らないでしょうけれども、日帝時代における「産米増殖計画」の用語は、韓国の高校生が大学受験において歴史科目を受験する時の頻出用語でもあります。

 戦後生まれの人たちにとって、「朝鮮米」とか「台湾米」という言葉を聞いたことのある人は稀ではないかと思います。近代日本は、長い間コメ不足の状態が続いていて、外国から大量のコメを輸入していました。1900年代前半から1960年代中ごろまでの半世紀間、日本はずっとコメの足りない国でした。

 大まかにわけると、1918年の米騒動前後でコメの輸入形態が変化するのですが、米騒動以前にはサイゴン、ラングーン、仏印、英印、中国、朝鮮、台湾といったところからコメを輸入していました。米騒動以後になると、コメは外国からの輸入ではなく、植民地での増産、移入という方針に転換してゆきました。この時期になると、非常に多くの植民地地主が朝鮮や台湾へ進出していくようになります。
 
島谷農場という植民地地主の住居跡を訪ねました。バスで群山市内の小学校へたどり着きました。
 

かつての農場跡地は、小学校などになっていることが多いそうです。なぜかといえば、刈り入れた稲を乾燥していた場所が学校のグラウンドになり、コメの倉庫があったところに校舎が建つからだそうです。
コメの倉庫が一時的に教室として使われていた時期もあったようです。

 写真は、群山市内の小学校の裏手に遺されていた、島谷農場の邸宅の庭の一部です。このような石造は、日本人が植民地へ進出した時に、朝鮮半島の古寺、廃寺から略奪したもので、そういった遺物を自分の庭に設えることが流行ったのだそうです。ここに置かれている石塔なども、今ではどこの寺のものだったのかが分からなくなってしまっています。写真奥の五層の塔は、百済様式のもので、重要文化財にしていされています。


小学校の裏手に、蔵がのこされていました。地上3階、半地下構造になっており、上階には骨董品、農場の帳簿類が保管され、下階には人間を虐待する道具類なども置かれ、軟禁された小作もいたようです。
>


  


Posted by ake. at 00:15韓国日記

2008年10月24日

毎日が韓定食

本日のake.の予定:1日中みっちり会議づくしface07今日は朝9時からのミーティングをかわきりに、3つも会議があります。涙とても良い仲間たちに恵まれて、なんとかやってこれたけれども、この半年間はなかなかにハードでしたicon11でも、あと10日でおしまいなのです。今朝は、仲間とモーニングミーティングをしながら、韓国土産のキムチ、海苔で朝がゆを食べました。

閑話休題…韓国で食べたもの。毎日ご馳走で、幸せ気分いっぱいicon06嗚呼、あとしばらくはこんな贅沢できないなぁ。












  


Posted by ake. at 00:42韓国日記

2008年10月23日

桜の道 -収奪から繁栄へ-

 群山は、かつて「コメの群山」とも呼ばれる港町でした。植民地期には、この港から大量のコメが日本へ運ばれていました。

 今回は「桜の道」を紹介したいと思います。

 今の全州市から群山市へ道路が開通したのは、1907年から1908年にかけての時期でしたが、この道は日帝国期のコメの移出道路として重要な役割をはたしていました。また、その後在日朝鮮人と呼ばれるようになった多くの人々が、故郷の農地を追われ、この道を通って日本へ流れて行きました。

 1977年に2車線だった道路を4車線へ拡張されました。当時、全州出身の在日の人たちによって道路脇に桜の植樹が行われました。「収奪から繁栄の道へ」というメッセージと共に碑が建てられ、見ることができました。

 日帝時代に日本軍によって植樹された桜が解放後に伐採されたという事例もあるようなので、なぜ「桜」なのか…という複雑な思いは拭えなかったのですが、それはたぶん、私たち以上に彼らが葛藤してきたことでもあったろうと思います。

 今年の春にも植樹祭が行われたようです。
http://www.jjan.kr/local/gunsan/default.asp?st=2&newsid=2008041018590901&dt=20080411



寄付者の碑


これは1977年に道路拡張にともなって建てられた記念碑。朴正煕の時代。



現在の4車線の道路。


道路の両脇に桜が植樹されています。


ちなみに全州では、毎年国際映画祭が開催されています。


2006年の山形国際ドキュメンタリー映画祭のテーマは「境界」でした。私もみにいったのでしたが「在日」
も特集されました。
  


Posted by ake. at 00:34韓国日記

2008年10月22日

韓国とナショナリズム。

 全州は、かつて百済の都があったことで知られています。また1392年に朝鮮を建国した李成桂の一族の故郷でもあります。 全州市内を案内してくださった、忠南大学の先生が「朝鮮は、1000回以上も攻められた歴史があります」って言っていたのですけれども、そう考えると、今韓国とか北朝鮮とかが大陸の半島に国として在ること自体、奇跡的なことかもしれないと思ったのでした。地図を見たら分かりますけれど、朝鮮半島の北側の巨大な中国って脅威です。しかも、南からは日本も…。
 
 それから、韓民族の文字としてハングルが創られ領布されたのが1446年の世宗の時でした。すべての日程を終えて、最後の1日に私はソウル市内にある景福宮へ行ったのですが、その宮殿群の一廓でハングルの創製作業が行われていたようです。日本は今でも漢字を使用していますが、朝鮮では「漢の文字を使用することは、思考も文化も漢に支配されることだ」という強烈な自覚のもとに文字の開発が行われていました。
 
 朝鮮半島の人々の長い歴史は、攻められては破壊された遺産を修復することの繰り返しでもありました。その仕事は、現在でも続けられています。桂福宮も日帝時代に壊滅的な状況にされてしまったため、現在でも修復作業が行われています。韓国における「近代化」は「失われた文化の復興」と同時に進んで行ったと言えると思います。

 「文化」とは、人間が創出したもっとも難しい概念だと思います。それが、いったい誰の文化なのか、思考停止を余儀なくされる場合すらあります。

景福宮の入口:この日は李朝時代の儀式が再現され、観光客がたくさん見に来ていました。


王が政治を執るときの心得


王宮へ入っていく時、不意に後ろを振り返ったら…近代が見えました。
  


Posted by ake. at 17:04韓国日記

2008年10月22日

韓国日記。

とても有意義な時間を過ごすことができました。

以前も書いたのですが、韓国の全州は穀倉地帯です。全北大学校には
コメ・生活・文明研究所なる巨大なコメ研究の拠点があります。

シンポの内容については、追々触れたいと思います。

今回の国際シンポジウムの会場になった全北大学校。


シンポの風景。
  


Posted by ake. at 01:32韓国日記

2008年10月19日

木浦の涙…

 @韓国全北大学校です。

 15日から、朝鮮の植民地時代と植民地以後におけるコメの国際シンポジウムに来ています。16日はシンポジウム、17、18日は植民地期のコメ移出港で知られている群山、木浦を、大学校の先生たちと一緒に踏査しました。

 植民地地主の農場跡地や拓殖会社の巨大な干拓事業のその後を見てきました。
 写真もたくさん撮ったので、また日本へ帰ったらアップしたいと思います。

 今日は、全州博物館、市立歴史博物館で資料収集に出かけます。

 韓国人とコメの分ち難いつながりは、日本人とのそれ以上に強く、ナショナルな感情を呼び覚ますのにある意味では非常に強烈な役割をはたすと思われます。そこには、朝鮮が昔から持っていたフォルクのコメ信仰と、植民地期における日帝のコメ政策への記憶が二重になってあるのだと思います。

 シンポジウムでは、コメと近代国家、あるいは文明ということがしきりに話題になっていたのですが、食糧問題が深刻化している現代社会の中で、民衆の生活感情ともっとも親密に結びついている「食」とメンタルな関わりについては、慎重な議論が必要な気がしています。価格高騰が続く中、アジア各地で、食糧をめぐる暴動が起きています。  


Posted by ake. at 04:54韓国日記