2015年09月20日

言説の領界。

 この1年間は自転車ブログみたいになりつつありますが、そもそもアウシュビッツとチェルノブイリを記録しようと久方ぶりに再開したのに。ひとつも書かないまま、もう半年過ぎてしまいました。秋学期が終わる前にはすこしは追加したいと思います。

 今日はcafe読みしていた、ミッシェル・フーコー『言説の領界』河出文庫です。


 なんだか私の専攻を民俗学だと思っているひとがすごく多いです。来る仕事、来る仕事、やたら《昔語り》系や《農村世界》系が多いです。ちょっと戸惑うこともありましたけれど、馴れました。
 けれども、自分がほんとうにやっている研究は歴史社会学専攻で、近代の東北研究です。そして、じつはミッシェル・フーコーの言説分析を方法論に採用しています。今更と言われようとも、私、フーコーがやっぱり好きなんです。(研究費で翻訳も含めて海外の書籍を購入すると「物言い」がつくのです。日本学を専攻している研究者に海外の文献は不要だなどと考えるのは止しましょう。「どうして自分は説明しているのだろう」と、悲しみにくれます。そろそろ分かっていただきたい...。)世界中に凄い歴史家や社会史の大家がいます。『地中海』のブローデル、『封建社会』のブロック、ノラ、ラデュリ...あ、ちょっとアナールに偏っていますでしょうか。彼らは言葉そのままに、まさに命がけで歴史を描いてきたのですが、それでもやっぱりフーコーが好きなんです。なぜかなぁ。
 
 例えば、こんな風に語るところがすごく気になります。日本語訳ですけれども......。

言葉を発するよりむしろ、言葉に包まれて、あらゆる始まりの彼方へと運ばれてしまえばよかったのに。


 こうして読んでいて、ひどく痛々しいと思うこともあるし、こんな場所から生まれた言説分析という方法論で、自分は何をどう浮き彫りにしようというのだろうか、と思うこともあります。
 言葉のあいだに挟まれて、ゆったりとたゆたうことができたなら、フーコーは自殺を繰り返すこともなかったし、禁忌という地と図の落差に苦しむこともなかったでしょう。けれども、その地と図の落差の中から、幸か不幸かエピステーメーが見えてしまった。
 このことを知ってしまった時、わたしも知らされた時、言葉の落差と網の目の中で、自分が生きてきたことを、はっきりと自覚したのでした。その気づきを与えたのは、なによりもフーコーでした。はじめて読んだのは、十代の頃で、寺山修司との噛み合わない対談相手として、彼の名を知ったのでした。フーコーが寺山を拒絶したことの後味の悪さを引きずりながら、大学で手に取った『狂気の歴史』に戦慄をおぼえて、確かに、わたしが生きている「この世界」には明確な「悪」は存在しないし、どこを見ても「権力者」がいないことに思いいたったのでした。禁忌は、世間によってつくられる。

 このやばい《世間》。
 
 
 

 


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